昭和55年03月25日 朝の御理解
御理解 第78節
「神の機感にかのうた氏子が少ない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたす(尽くす)ことがあり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ。」
三代金光様が16歳の御年でした。九州におなりになりました。その時に久留米の初代石橋松次郎先生の事を称して、「石橋さんこそ真の人ですなぁ」と仰ったという言うお話が残っております。もう本当に真の人とはこんな人だろうかと思うようなやっぱお方でしたですね。それこそ「出過ぎもせず、引っ込み過ぎもせず」。と金光様は仰っておられます。私はね今日の人間と身代と達者ということが言うてありますけれども、そういう意味での人間が立派であるという人は、信心がなくてもあると思うですね。
皆さんの周辺にも見てご覧なさい。正直で人物でいわゆる人徳家というのがありますでしょうが。あぁあの人の言わっしゃる事なら間違いなかろうという人があるでしょう。だからあのうそれではないようです。言うならそれはまだ三代金光様が16歳の御年ですから、石橋先生もお若い時であったでしょうし、同時に段々石橋先生がおかげを受けられて、いわゆるそれこそ持って生まれた人間性というものが豊かで、素晴らしいまぁ真の人だと言われる程しのまぁ御人物であったということ。
そのご人物が信心辛抱こそと四神様が仰られたように、もう信心辛抱こそしとれば物事整わん事ないぞと仰る、もう徳の世界を教えておられております。全ての事がままになる成就するという。その信心辛抱をまぁお続けなられてあるのですから、やはりここはひと頑張りと思うて辛抱し抜かれた事があるだろう。心に辛い思いをしながらも、そこをやっぱ辛抱しぬかれた事もあろうけれども、その辛抱が徳ともなりその辛抱が身に付いてしもうた時には、もう辛抱する事すらなくなっておられたのではなかろうかと。
これは私が想像するのです。安泰徳を受けられたということは、そういうもう自分の周囲には辛抱せんならんような、例えどういう普通の人間でならば、無念残念と言った様な事であっても、もうぜんぜん問題じゃない。もうただ有り難いの一語に尽きるという生き方をなさったんだと思うですね。私今日はその石橋先生の真の人というその事が、このうここでも言われますけれども、何故そう思うかと言うとね。
神のおかげを知らぬから互い違いになるとか、神の大恩を知れば無事達者で子孫も続き。それこそ一年まさり代まさりのおかげを受けられると仰っておられますね。だからその人間性と言うものは、もうあの人間性から神性。神の性に変わっておられたと。でなかならければ本当の意味においての、おかげを知らんからと言う様な事はあのう出来ません。なるほど無い命を助けて頂いた。開けぬ道を開けて頂いた。私を私一家はもう金光様のおかげでという成程おかげじゃないのです。
その程度のおかげを知っとる人は、もう金光教の信者では沢山あると思うです。あん時あぁいうおかげを頂いた。あん時には開けんはずの道があげんして開けた。おかげを知らんはずはない、一生忘れんというおかげを受けた人は沢山あろうけれどもです、おかげを知らんから互い違いになると、言った様な風にここでは言っておられますから、そういう意味のおかげじゃなさそうです。これはやっぱりですね、いわゆるその真の人の事の人間を目指さしてもらい。
そしてそのもうひとつ向こうにある、いわゆる教祖のいわゆる、まぁ金光教の信心のギリギリのまぁ神情であり、目指す言うならば要だというのが、生神を目指すという事。此方の事を神神と言うけれども、此方ばかりじゃない皆んなもその通りのおかげが受けられるんだと。生神とはここに神が生まれるということであって、と言う風に教えられておられます。だからどうしてもね、やはり人間真の人間と言うても、やっぱり人間ですから人情を使います。人間心を使います。
使うていけんのじゃないです。真の人が使う人情ですから、それは豊かなと言うかまぁ高度の人情でしょうけれども、いかに高度な人情であってもね、それが神情と一つになって、言うならばあのコントロールが出来る、人情でなかならければならないという事です。人情即ち神情に繋がると言う心の状態です。そこまで行かないとね、いわゆるここで教祖が仰る、いわゆる互い違いが無い、一年まさり代まさりのおかげが頂いて行けれる様な、神の大恩を聞いても、実際実感として分らんのが本当じゃないかと思うです。
おかげを知ってるあん時も助けてもろうた、あん時も道を開いて頂いたと知っておるけれども、互い違いになるというと、それはやっぱそうじゃない訳。ここで言われる神のおかげを知らぬからとか、神の大恩を知らぬからという、その大恩を知るという事は、私共いよいよ生神を目指しての精進からでなかならければ、その実感として伴うて来ないものだという事を、今日はなんかまぁ新たに分からして頂いたような気がするんです。そこには必ず人間いわゆる身代も伴うて来るでしょう。
世の中にはあの人のような正直な人。本当に真っ当な人だ。もう陰気臭い事を言われる事がもう、本当にあの人こそ真の人間じゃろうと言う様な人でも、なら身代が伴なわない。それこそ生死に甘んじて一生を終って行くという人は沢山ありますよ。ただここで言われる人間。出来ればね身代も健康も言うならここで申します、貧争病のない世界。真善美輝く世界というものが約束される程しのものなんです。でそれをね言う事だけじゃない。聞くばっかりじゃないじゃなくてね。
本当にそうだと信じて私共が、いよいよ生神を目指さなければならないということでございます。柿の種にももうすでに柿の芽が、二つに割ってみるともうちゃんとこう芽が中に出来ておる。人間も生まれると同時に生神の芽というものが、ちゃんと心の中には誰でも、だから教祖が誰でも生神になれる資格があると仰るのはそれです。誰でもなれると仰るのはそれです。だからそれをねいよいよあの土に返していくというかね。
水分が与えられる。ご陽気が与えられるのも初めて柿の種が芽をきって芽を吹く。木になる枝になる。実りになるということなんです。人間もやはりそこんところのです、いよいよ真の人間からいわゆる生神を目指すというそのう段階がある。久留米の初代の真の人ですなぁで、私共はもうそれを最高の石橋先生を称する言葉のように思うておったけれども、それは先生の若い時の事であって、それから生神を目指された。それはあの信心辛抱ということであった。ここの言葉で言うと言うなら土の信心に徹底された。
そこから生神の芽が出て来た。言うなら久留米の生神様と言われる程しの御神徳を受けられた。そこには辛抱の世界というものはもうなかった。ただ有り難い世界であった。そこに初めて言うならば人間と身代とこう仰るのはそれです。金光教のお道の信心の中にもね、ならおかげを知らんとか大恩を知らん。おかげを知らん者はない大恩を知らん者はないけれども、けれどもなら教祖が仰る様な、子孫繁盛やら代まさりやらね、互い違いになっておると言った様な人達があるのを見ると。
ならその程度のおかげであり大恩ではないと言う事。これは人間ではなくて生神を目指すところの言うならば、言うならば徳の世界に住まわせて頂いて、初めて神の大恩がいよいよ分り、神のおかげをそれこそ、もう限りない神のおかげを感得する事が出来る。心にそれを頂きとめる事が出来る。そういう言うならばあの人間性から神性への過程をね。私共はただ真の人でさえあれば良い様に、思うておったけれどもではなかりそうである。今日私はそこんところを特にあのう強調して聞いて頂いた訳ですが。
皆さんもそうです。真の人だからと言うて安住をしとってはならない。目指すところはやはり生神であるという事。そして本当言うたら生神ですから、神情一本で行きたいのですけれども、人間世界にあるのですから、やはり人情も使わなければならない事がございます。その人情もです言うならば合楽理念は、素晴らしいコントロールの手立てを説いてあります。そこから言うなら神情とみなして下さる神様の働きを受ける事が出来て、いよいよ今まで知らなかった神のおかげを知り。
今まで知らなかった神の大恩をいよいよ大恩として知り、そこにいよいよ日勝り月勝り年勝り代勝りのおかげの頂けれる、そういう信心が三代続いたら、神の機感にかのうたと言う。だからその見易い事じゃないのです。けれどもね私共がその気になって頂けば、合楽理念に基づいてするとです、それこそ楽しゅう愉快にもうその事だけに専念していく手立てがね、説いてあるのですから出来んなりにもです、曲がりなりにもやはりお互い生神を目指しての信心、又は修行でなかならければならんと思うですね。
どうぞ。